LOGINダークブラウンのレンガで造られたこじんまりとした一軒のブティックワイナリーの前でラルゴは足と手押し車を止めた。じっとりとした暑さに汗が吹き出し、額を流れていく。空色と白のストライプ柄が太くはっきりとしたコットンシャツの肩口でラルゴがぞんざいに顔を拭っているのを横目に、リスルは可愛らしい赤色のドアをコンコンと叩く。
「ハンスさん、いらっしゃいますか?」 はーいともほーいともつかない野太い声が扉越しにくぐもった返事をよこす。しばらくの後に、ラルゴと似たような年恰好の少し困ったように眉を下げた男がわずかに扉を開けて顔を覗かせた。 「ああ、ラルゴさんとリスルか。いつもの納品かい? だったらちょっと裏に……」 辺りを窺うように視線を巡らせながら、ハンスは声を潜めてそう言った。時折、ちらりと茶褐色の視線がリスルの顔面を掠めていくが、妙に視線が合わない。何かおかしなところでもあっただろうかと、彼女は上から下へと己の全身にざっと視線を滑らせたが、いつも通りエプロンが少し土や葡萄の汁で汚れているだけで、特に不審な点は見当たらなかった。 恐る恐るといったふうに玄関から出てきたハンスに誘導され、ラルゴは手押し車を押しながら、建物の裏手へと消えていった。リスルは訝しげに思いながら、壮年の男二人の背中を見送る。 「リスル。ちょっと」 再度、玄関の赤い扉が必要最小限に開かれ、リスルは腕を引っ張られる。どこか気づかうような表情を浮かべたハンスによく似た面差しの娘の顔を認めると、 「ユリア、どうしたの?」 「どうしたって……ああ、もうやっぱり」 いいから入って、と亜麻色の髪をボブカットにした娘に有無を言わさず家の中へと引き摺り込まれる。いつもは小動物のようにくりくりとして明るい茶褐色の双眸があまりに真剣な光を湛えていたため、リスルはされるがままにしていた。 「リスル……やっぱり何も知らないのね? あなたの家は町外れで、町の話も届きにくいから仕方ないのかもしれないけれど……。あなた、大変なことになってるわよ」 リスルと同い年の小柄な少女は、真顔でそう捲し立てると、深く嘆息した。リスルは彼女の勢いに気圧されながらも、全く話についていけずに、グリーンの瞳を瞬かせた。彼女の指摘通り、町外れに住むリスルたち一家の耳には町中の噂話は届いてきづらい。 「えっと……大変なこと、って一体……? 何かあったの?」 「あなたねえ……」ユリアは半ば呆れたような視線をリスルへと送る。「あのね、リスル。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……あなた、すぐにでもこの町から逃げたほうがいいわ。教会に狙われてる」 「……教会に?」 リスルが聞き返すと、ユリアは重々しく頷く。 「そうよ。ねえ、リスルは半年前にこの町に来た陰気野郎……じゃなかった、レシェールから赴任してきた司教様、わかるわよね?」 年頃の娘らしからぬ悪口をさり気なく織り交ぜつつ、ユリアは問うた。リスルは記憶を辿ってそれらしき人物の名前をどうにか掘り起こすと、 「えーと、ジーク司教、だっけ?」 「そう、それ。あいつ、教皇の代替わりのときに上司の巻き添え食らってこんなど田舎に左遷されてきたとかで、レシェールに返り咲くための点数稼ぎを目論んでいるらしくって」 「う、うん……それがどうしてわたしに関係してくるの?」 可愛らしい見た目に反してナチュラルに口が悪くて毒が多い友人に、リスルは話の続きを促す。 「今代の教皇が何に力を入れているか、リスルも知らないわけじゃないでしょう? どうにもリスルの特技に関しての話があの根暗の耳にも入ってきたみたいで、レシェールの神聖騎士団に視察に来るよう要請を送ったらしいとか」 話が見えてきて、リスルは顔を顰めた。 今の教皇である、ネハン・グレナデンは聖典に記載されている悪魔の祝福を受けた眷属――『悪魔の力』だとかいう超常的な力を持つ者への取り締まりを強化しているということで有名だ。そのためであれば、どれほどに強硬な手段をも行使する厳格で冷徹な人物であると聞いたことがあった。 リスルの”特技”は、あくまで母方の血から受け継いだものであり、聖典に記されている『悪魔の力』と異なるもののはずだった。自分の”特技”を使うと、疲労を感じることはあるものの、リスルにとってこの能力はあくまで自然と共に生きるためのものであり、教会のいう悪魔がどうのこうのといった邪悪さや恐ろしさは感じなかった。 つまるところ、ジーク司教の点数稼ぎ――大方、教皇の打ち立てた方策に対して貢献することで、レシェールで返り咲くために便宜を図ってもらうべく、彼は自分を利用することにしたのだろうとリスルは思った。法衣に着られてしまっている感がある貧相でどことなく小物感があるあの小男なら、己の出世のために教義を振り翳し、他人に無実の罪を着せるくらいのことは平気でやってのける気がした。 「神聖騎士団って……あの?」 リスルが嫌そうに聞き返すと、ユリアも同様に顔に嫌悪を浮かべて、 「そう。あの実質傭兵崩れの荒くれ者の寄せ集めっていう。神聖騎士団から視察用の部隊を一つ編成して、近いうちにこの町に来るらしいって噂よ」 捕まったら何されるかわかんないわよ、とユリアは心配そうに言った。 リスルは十七歳の若い娘だ。確かにユリアの言う通り、神聖騎士団の連中に捕まれば、どんな辱めを受けるかわかったものではない。彼らからすれば、一時の快楽が得られさえすれば、リスルが本当に『悪魔の力』を扱う異能者かどうかなど、恐らく関係ない。己の身を守ることを考えれば、逃げたほうがいいというのはわかる。しかし、リスルが逃げてしまえば、あの騎士とは字面だけの悪名高い荒くれ者集団に家族がどんなひどい目に遭わされるかわからなかった。 「ユリア、ありがとう。心配してくれて。わたしは……大丈夫だから」 リスルは顔が引き攣りそうになるのを抑えながら、無理矢理取り繕った笑顔をユリアへと向けた。 「大丈夫って……リスル」 「父さんも戻ってくるころだろうし、そろそろ行くね」 何か言いかけたユリアを遮って、そう畳みかけると、リスルは軽く手を上げて彼女へと背を向けた。 リスルが玄関の扉を開けて外へ出ると、またお願いしますねというラルゴの声が聞こえてきた。空になった手押し車を押す恰幅の良い体が建物の陰から姿を現す。 「おー、リスル、待たせて悪かったな」 「大丈夫、ユリアと話してたから。ねえ、父さん」 そう返したリスルを見て、陽気そうな笑みを浮かべていたラルゴは表情を改める。いつも大雑把で無神経な彼にしては珍しく、顔を曇らせて、少し躊躇うように、 「おい、どうした……? リスル、まさか、お前……」 「ううん、どうもしないけど……? それより、さっき、ユリアが今日の蚤の市でカロンが好きそうな綺麗な絵葉書を見かけたって言ってたんだけど、このまま今から行ってきてもいい?」 無理の滲む笑顔で、リスルは無邪気さを装い、口から出まかせの嘘を述べる。気丈な振りをしていられるうちに、今は少し一人になりたい気分だった。 「いや、おい、リスル、待てって」 引き止めようとするラルゴにリスルはそっと耳打ちをする。 「あの話、父さんもハンスおじさんから聞いたんでしょう? 大丈夫、わたしもユリアから聞いたわ。けど……この話、母さんやカロンの耳に入らないようにして。きっと、これを聞いたら母さんは責任を感じて泣くし、カロンは今以上に体調悪くしそうだから」 「けどな、リスル……」 「いいから。お願い、父さん」 リスルは強い口調でそう言うと、半ば逃げるようにして、踵を返した。 (リスル……あいつ、無理しやがって) 足早に歩き去っていくリスルの背中が、ラルゴにはひどく痛ましいものに見えた。 微塵も雨が降る気配などないはずの夏の終わりの青い空に、黒い暗雲が立ち込めているような気がした。特に目的もなく、町の中を歩き回っていると、リスルはいつの間にか蚤の市が立っているメインストリートへと来ていた。色々な品がごちゃごちゃと雑多に並ぶ露店の間をこの残暑にも負けずに人々が行き交っていた。
すれ違う人々は、リスルの姿を認めると同情的な表情を浮かべながらも、関わりたくないのか露骨なくらいにさっと視線を逸らす。髪留めやブローチなどの装飾品を扱う露店の女主人と中年の女性客は、ちらちらとこちらに視線をやりながら、声を潜めて何かを話している。喧し過ぎるほどに賑やかなこの場所で、リスルは自分一人だけが活気に取り残されてしまっている気がした。ユリアの話は本当だったのだと、改めて実感した。込み上げてきたやりきれない感情に喉元が締め付けられるような感じがした。 まだ暑いはずの季節なのに、どこか薄ら寒さを覚えながら、リスルは俯き、流れに沿ってメインストリートを歩いていく。惰性で歩きながら、ふと顔を上げると、露店に並んでいた手のひらに収まるくらいの大きさの木彫りの小鳥と目が合った。ハチドリらしき鳥を模したその木彫りの人形を何とはなしにリスルは手に取ると、関わり合いになりたくないのか頭上から迷惑そうな老人の声が掛けられる。 「金はいらない、持っていきなさい」 「え、でも……」 リスルはエプロンのポケットの中をまさぐり、小銭を取り出して老人へ手渡そうとすると、露骨に迷惑そうに押し止められる。 「いいから、早く行きなさい。皆まで言わせないでくれ」 「……すみません」 リスルは小さく頭を下げると、その場を後にした。生まれ育ったこの町は最早リスルのいていい場所ではなく、自身は厄介者でしかないのだということをひしひしと痛感させられた。 白日の空に浮かぶ、天辺よりほんの僅かに西に傾いた太陽のぎらつく光を背に感じながら、重たい足をのろのろと動かしてリスルが帰宅すると、家の中は静まりかえっており、ダイニングテーブルの上の昼食のサンドイッチだけが無言で彼女を迎えてくれた。もう午睡の時間なのかとぼんやりと思いながら、キッチンの隅に置かれた水瓶の水を使い、叩きつけるようにしながら彼女はばしゃばしゃと顔を洗った。 つん、と鼻の奥に何か塩辛いものを感じた。顔を濡らしているのは決して水だけではなく、熱を持った雫がぼたぼたと床に零れ落ちて染みを作っていく。リスルはキッチンの隅にしゃがみ込むと、膝へと顔を埋めた。浅緑色のワンピースの布地が彼女の涙を受け止め、ところどころ濃い色へと色を変えていった。 リスルは必死で歯を食いしばって、漏れ出しそうになる嗚咽を無理矢理押し止める。微かに背中が震えていたが、己に対して気づかないふりを装う。今、自分が泣いているということや傷ついていること、苦しく悲しいと感じていることを彼女は決して認めてしまいたくなかった。 窓から差し込む日差しが西に傾き、午睡から家族が起き出してくるまで、彼女はそのまま動かなかった。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







